昭和41年03月24日 朝の御理解
元来信心をさせて頂いて、おかげを頂くということは、そのおかげがおかげに繋がっていくというものでないと、これは本当のおかげとはいえない。おかげがおかげに繋がっていく、いわゆる無限、無尽蔵。限りなくおかげが続けられるだけではない。それが進展していく、それが段々大きくなっていく。でなかったら、それは本当のおかげじゃあない。そういうおかげを頂ける、信心の基礎というものが大事である。
いうならば銀行にお金を預けておるようなもの。壱万円なら壱万円のお金を預けておれば、何時までも壱万円かというとそうではないでしょう。それには必ず利がつく。しかも利に利がつく、と言う様にですね、段々おかげというものは無尽蔵に、しかも限りなく大きくなっていくというのが、信心のおかげである。ところが元来そうなんだけども、お互いが頂いているおかげというものは、あん時は目覚ましいおかげを頂いた。
あの時には人がびっくりする様な又、自分もたまがる様なおかげを頂いたけれども、その後いっこうおかげを受けん様になった。そういう信心にとどまっていたら、信心は私は値打ちはないと思う。ある意味では、成程信心を低級視されても仕方がないと思う。むしろ信心する者は、欲の深い欲張りだというて、軽く見られたり軽視されたり、いわゆるされても仕方がないと思う。ね、欲の為の信心だもの。
だからそれではです、おかげが受けられなくなったといやあ、もうその信心が疎かになる、お参りが出来ようになるという信心ではつまらん。元々信心のおかげというものはです、続かねばいけん。限りなくしかも、それが大きく育っていかにゃあいけん。それは銀行に預金しているようなものだと、ね。銀行に預金しとって段々少なくなる事はないでしょうが。それは勿論、そのう元も子もないように元金を引き出していければ、もうこれは無くなるのは間違いないけれども、ね。
銀行にお金を入れとって、段々お金が少なくなって行ったと言う事がない様にですね、ほうたらかしとったら、何時の間にか、本当に銀行ちゃあ有難い所じゃある。ちゃんと利に利をつけてくれて一万円のが一万五千円になっとった。暫くほうたらかしとったら、もう倍になっとったと言う事にならなければ嘘。そんなもんなんだ。そこんところをひとつ皆さんおかげを頂いていかねばならない。そういうおかげを頂くためには、どういう信心をさせて頂いたならよいかと言う事になるでしょうが、ね。
私の頂いておる、御教えの中に、真心とは条件のない事ですと仰る。真心とは条件のない事、こうしては出来ん、こうしてもらおう、と言った様な事がない事。参ったから、御用させてもろうたから、こういうおかげを頂くために、御用させてもらうという条件があっては真心でない。信心ではもう一にも真心、二にも真心とこう申します。真心の厚い人がおかげを受けるのです。お徳を受けていくのです。真心とは条件のない事。同時体おしみをしない事ですとも仰る。
どうでしょうか、お互いの信心の内容というものをです、果たして真心の信心が出来ているだろうか。信心とは真心とは条件の無い事。同時に体おしみをせん事だと。自分の身ばっかり可愛いくてたまらんね、こうして貰おうと思うてからこうしよう、こうしてもらいたいばっかり、これでは私が今日言う、ほっといても大きくなっていくという様な、おかげにゃあ繋がっていかないと思う。
そういうおかげを頂かなければです、例えば飛びでくようなおかげを頂く、あん時には、こげなおかげを頂いたばってん、という様なものだけだったらです、やはり御利益信心というて、拝み信心というて、一般から信心を軽う見られても仕方がない。親の代より子の代、子の代より孫の代いう様にです、段々繁盛にもなっていきゃ人間も身代も、ね、健康の上にも、何かにが足ろうていく。段々それが、しかも大きく育っていくという所に信心のおかげというのは、そういうもんでなければならない。
いわゆる信心をさせて頂いて、信心のお徳を身に受けていく、身に付けていくというのである。私、今日そんな思いを、私はそうだと確信させて頂いているけど、そしたら頂きます事がですね、あの正月に、この追い羽根をつきますね。女の子が羽根をつきます。あの羽根を頂くんですよね。あの羽根のムクロというものがついている。今の人は知らんかもしれない。黒いこん位いばっかりの、丸い固い実なのです。それに鳥の羽根を、こうつけてある。それが羽根です。
ムクロが軽かったら、羽根がこう大きかったりでは上がりはしません。いうならば神様がついて下さる。私共は羽根の様な状態じゃなからなければならないと言う事。追い羽根をする時の羽根の様な、私達共でなくてはならないということ。つくものも、つかれるものも、おかげを下さる方の側も、おかげを頂く側も有難い、勿体ないというものでなくてはいけん。おかげを下さる方も喜んで下さる、頂く方もばさら喜ぶ。おかげでおかげでとゆうものでなからにゃいかん。これは丁度羽子板と羽根のようなもの。
そういう関係の状態がです、私共と神様との状態でなくてはならん、ね。それから、私が思うのです。大変苦労する事をですね、色の黒い人をね、ムクロのごたる人と、私共の知った人ですね、顔立ちはとっても良いのですよ。でも色の黒い人で、その人の事をムクロ姫ムクロ姫と言っていた。色は黒いでしょう。顔形はお姫さまのごとしてあるけんムクロ姫というて、それこそムクロのごと黒うしてござる。
例えば、ですから私は、その事から思わせて頂いたんですけれどもね、黒という事は信心させて頂く者は苦労とは申しませんね。修業と申します。修業と頂かねば、苦労で頂いたんじゃおかげになりませんものね。ですから修業をいとわん人でなきゃならんと言う事。もうその修業から抜けよう抜けようと、もう楽になりたい楽になりたいという人は、何時になっても楽になりません。もう楽になりたいばっかりに、お参りに来よるという人は、何時まで経っても楽になりません。
それはタライの水をこちらに手前に引くようなもの。おかげになりたい、おかげになりたい、楽になりたい、楽になりたいといって、手前の方に引いているから、水は向うの方に逃げていく様なものですよ、ね。むしろ、だからです、ね、苦労はいとわんね、修業はいといませんとね。だからそこに、一つの目ざしというものが、目的というものがです、神様に喜んで頂く様な目ざしというものを、お互いが銘々にもたせて頂いて、商売繁盛なら商売繁盛の事を目ざしというものにする。
しかもその目ざしの目的がです、新たな商売、新たな店としての繁盛のおかげを頂く。神様に喜んで頂くような目ざし。例えば、私の場合なんかは、もう本当に親に安心してもらいたいばっかりというのが目ざしだった。為には、私はどげな苦労しても、かんまんというのが私のむくろのところだったと、自分でも思うのです。勿論、それが段々親が本当の親に変わっていった事だけは間違いありませんよね。ですから、これなら神様を動かさんはずがない、神様が喜んで下さらん筈がない。
親に安心してもらいたい、親に喜んでもらいたいと、ね。どうぞそういうおかげを頂かせて下さい。その代わりに、例えそれがムクロの様な修業でもいといません。という私はそういう修業精神です。その修業から逃れよう逃れたい、早ういっちょこの修業から逃れたいと言った様な事では、それはタライの水を向うに押しす様なものだから、引くようなものであるから、却って水は向うの方に逃げてしまう。ですから、信心させて頂いたら、その修業と言う事を、楽しゅう出来る様にならなければいかんと。
だから、つまらんつまらんといえば痛い痒いといった修業するよりも、してみるとお日参りとか、朝参りさせて頂く事が一番尊いことになるですね。もう本当にですね、自分の身が可愛いという人ばっかり、自分の身が可愛いくないという人はいやしません。けれどもですね、ひとつの事に当り、事にそれが願い縋ると言う事になってくる時です、自分の身ばっかり可愛いと言う人はおかげになりません。私は、私はどうでもよいですから、私はどうでもよいですからと、何時も私というものを空しくすると言う事。
私は追い羽根の、その羽根から、今日感じさせて頂いた事はです、いわゆる自分の身を、何時も鴻毛の軽きにおくという事だと思うた。私は、皆さん自分の身を鴻毛の軽きにおくと言った事は、今の人は知らんかもしれませんね。忠義と言った言葉が盛んに使われた時代ですよね。君には忠義、親には孝という様な、君の為なら自分の身は鴻毛の軽きにおくね、自分の身なんかはどんなになってもいい。
鳥の羽根よりも子を思う。鳥の羽根というものは実に軽いだそうですね。鳥の羽根のようなもの、産毛のようなもの、自分の身というものをです、鴻毛の軽きにおける人、そして私は修業を厭わない人、そういう人、そういう信心を願っている人の上に、今日私が申します、元来信心のおかげというのはです、それは銀行に預金をしているようなものでね、必ずそれは放任しておっても、ほっといてもです、段々利害を産むようなおかげになっていかねば嘘だと。
そういうおかげになっていかないならばです、あの時代まではおかげを頂いたけど、あの時代からこっちはおかげ頂いとらんというならです、それはどうもおかしい。何かの形においてです、これが進展して育っていかねば本当のおかげじゃないね。だから元金に手を付ける様な事をすれば、それは少なくなっていきますよね。それこそ最後には元も子も無くなってしまうでしょう。
昨年よりも今年、今年よりも来年。いわゆる日勝り月勝り年勝り代勝りという様にです、おかげを頂いてゆくのが信心のおかげである。そういうおかげを頂ける為にです、自分をひとつ真一つと仰るのですから、真心にならにゃあいけんと、本気で真心にならせてもらわにゃあいけん。真心とは体おしみをせん事である。条件の無い事だという事。今日の御理解を頂きますとです、修業をいとわないという人、こういうおかげを頂く為にはです、私の修業は厭いませんという事。
という程にです、自分の身というものを自分の身ばかりを可愛いというのでなくてです、自分の身を鴻毛の軽きにおけれる、と言う様な心がけの人です。又そこにはです、言わばタライの水を反対に向うに押しているのですから、もうこれは手前の方に返ってこないはずがない。それはもう、これはもう一つの原理ですから、間違いの無い天地の法則なのですから。だから法則を無視しての信心であってはなりません。
ひとつ折角椛目にご縁を頂いて、信心の稽古をするのでございますからです、あん時は、こげなおかげを頂いたぎりのおかげに留める事のない、限りなく無尽蔵に頂いていけれるおかげの元というものをです、いわゆる元金の方をしっかり頂かせてもらう。それを銀行に預けておるようなおかげを頂いて、ほっとおいても利が付いていく様なおかげを頂きたいものだと思いますですね。
どうぞ。